『わたしたちのウェルビーイングをつくりあうためにーその実践・思想・技術』を読んで
更新日:2022年4月1日
以下に記すことは、当課題本のレビューでもなければ読書会レポートでもない。
あくまでも読んだ後、なんの脈絡もなく脳裏に浮かんできたものである。
なぜ、そのような考えを思いついたのかも漠としておぼつかない。
とは言っても、当課題本を読んだからこそ生じたものであることも確かだ。
そこで読後に、脳内の底から浮かんできたもの。
そのようなものを可能な限り拾い上げ、整理して書いてみることとする。
(多少は課題本の内容にも言及しています)
まずいきなりペットの話で恐縮だが、
ネコちゃんやワンちゃんを飼った経験がある方なら、お分かりだろう。
彼らは「愛」と「幸せ」について教えてくれるメンターなのだと。
仕事先からヘトヘトになって、家路につく。
心がささくれだっている・・・。
そんな時ですら帰宅を喜び、甘え、ウェルカムの感情を全身で表現しながら出迎えてくれる。
そんな時、いつも思う。
「うちらは相思相愛だね」と。
そして、「居てくれて、本当にありがとう」と。
「みんなが元気に居てくれるだけで、それだけで幸せなんだよ」と。
(ちょっと涙目・・・)
このように、私たちは互いに影響を与え合って生きている。
(おいおい、ワンちゃんやネコちゃんの話は、単なる枕に過ぎなかったのか?)
今回の課題本のメインテーマは「私たちのウェルビーイング」を作り合うこと。
「ウェルビーイング」とは一言でいえば、その人にとって「よい状態」のことを指す。
だが「よい状態」とはいっても、その内容は一人ひとり異なってくるだろう。
さらに先述したように、人は互いに影響を与え合っている以上、その相互関係もウェルビーイングに関わり合ってくる。
ここにおいて、本書の大きく2つの提言がクローズアップされてくるのだ。
一つは「わたし」ではなく、「私たちのウェルビーイング」とは何か。
もう一つは、それを「作り合う」=「共創」していくにはどうしたら良いのかと。
そして、これらを考えていくと、我々に以下の点が突きつけられてくる。
それは何かというと、単に「こうすれば幸せになれますよ」という具体的な処方箋のみでは、不足だという点である。
なぜなら、そこに「私たち」と「共創」が関わってくる以上、これらをどう包摂していくのかという、ある種、公共的な空間のあり方に。
さらに、何をもって善しとするのかの価値観や文化とも関わってくるからである。
つまり、具体的=単一で限定的な回答では、そこから漏れてしまうものが生じてしまうのである。
ビジネスで成功した人だけが、よい状態なのか。
財産を所有している人だけが、よい状態なのか。
有名人になるだけが、よい状態なのか。
あらゆるものを思う存分に消費するだけが、よい状態なのか。
(「だけ」と限定しているのは、ちょっと卑怯かもしれないけれど)
そのためにも大切になってくるのは、まずは異なる階層の人たちが集い、異なる見解に耳を傾けられるような環境を整備する。
このことが初めの一歩になるのではないかと考えている。
なぜなら、似た者同士だけしか集まらない空間では、限定的な価値観。
つまり、ある種の条件を満たせば「勝ち組」。
満たせなければ「負け組」と単純な二分法で仕分けていく考え方。
そんな狭隘な料簡しか出てこない可能性が高いからだ。
それこそ数行前の、「だけ」に限定された価値観が跋扈してしまう世界。
そんな世界が現実味を帯びてくることになる。
これは歴史を紐解かなくても、ネットで頻繁に目にする現象であろう。
(例えば、正社員じゃないと恋愛や結婚する資格がないという価値観は、性別を問わず、ある程度は現実化していると評価せざるを得ない)
はっきり言いたい。
そんなクソみたいなものは、まっぴらご免だと。
「だけ」に限定された価値観は、人々を分断してしまうのだと。
というわけで、みんなが気軽に社会的なことや知的なこと、芸術的なことなど、それぞれの価値観や文化に関わるものについて、気軽にしゃべり合える「場」や「空間」。
そのような「場」や「空間」が、今後ますます求められてくるのではないか。
(異なる価値観が存在するということを実地に、そして身体的に経験できる場として)
読書会も、そのような活動の一翼を担えればと考えている。
そして以上から、「ウェルビーイング」を考えることは、個人だけでなく、
私たちのことを考えることでもあると言えるのだ。
最後に蛇足だが、保護犬・保護猫活動は、わたしたちのウェルビーイングとも関わっている可能性がある。
ということに言及して、締めとしたい。
(ワンちゃん・ネコちゃんを置いてけぼりにしなかったよ)
