ウェス・アンダーソン監督『ダージリン急行』レビュー※ネタバレあり
あらすじ
長男フランシス、次男ピーター、三男ジャックのホイットマン三兄弟。彼らはフランシスの提案で、インド北西部を走るダージリン急行に乗り合わせた。旅の目的は、父の死をきっかけに1年ものあいだ絶交状態にあった兄弟の結束を再び取り戻すことだったが...。三兄弟のインド珍道中をユーモアとペーソスを織り交ぜオフビートに綴るハートフル・ロード・ムービー。主演はオーウェン・ウィルソン、エイドリアン・ブロディ、ジェイソン・シュワルツ マン。
寸評
先日初鑑賞。ウェス・アンダーソン作品は今回ほぼ初めて。だいたい以下の印象を抱いた。 ・青や黄を中心としたカラフルな色使い
・オシャレな美術
・三兄弟のコミカルな掛け合い ・死など重い題材を扱っていながら、それを軽やかに気を抜いて描いている ・個性的な映像技法
また、ウェス・アンダーソン的…なのかは分からないが、特有のオリエンタリズムを感じた。ウェス・アンダーソンは日本の文化に関心がある人なので、東洋の価値観に共感的な人なのかもしれない。ただ、少し気になった点としては、言わば「Magical Indian」のような味わいを感じたこと…。 ともかく全体として面白かった。
映像の特徴
・イマジナリーラインを臆面もなく飛び越える (日本の巨匠・小津安二郎の撮り方を彷彿とする。狭い列車内を自由に捉えるやり方も、日本の狭い家屋を撮る際の小津節を感じる)
・一点透視図的な、俳優を正面に捉えた左右対称のショットが多い
・ゆっくりでヌメリのあるパン
・日本の任侠映画のように、俳優をズームで捉えるショットが多い(見得を切る感じ) 総じて、日本映画の影響を感じる(ちなみに、同監督のFilmographyには日本の昔話「桃太郎」から着想したストップモーションアニメ『犬ヶ島』がある)。
物語について
メインテーマ
・Anti paternalism/Maternalism ・家族の再生 ・自由 が大まかなテーマだと思う。
登場人物
paternalisticな長男フランシス、女好きで自由気ままな三男ジャック、そして二人の間に挟まれマージナルな存在として葛藤する次男ピーター。さらに彼らの関係性の背後に、作中には直接登場しない「見えざる父/不在の神」の存在がある(構造的に、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を彷彿とする)。三兄弟は、父が生前兄弟の誰を最も愛していたかで口論したりするが、これはユダヤ教、キリスト教、イスラム教のいがみ合いのようにも見て取れる。また、家族を捨ててヒマラヤの修道院へ出家した母の存在も大きい。母の存在は、こうしたいがみ合いの外にある別の回答そのものであるだろう。 三兄弟の中で最も注目すべき人物は次男のピーターだ。彼は冒頭、兄弟で待ち合わせていた“ダージリン急行”の便に唯一乗り遅れそうになり、発車直後の列車へギリギリ飛び乗るのだが、これは前述した通り彼が兄弟の中でマージナルな存在であることを示している。 彼には葛藤がある。関係が良好でなく離婚寸前、しかも我が子を宿した妻を家に置き去りにしている。しかし兄弟の関係を修復したいとも思っているので、気乗りしないながらも旅に参加するのだ。
画面の進行方向
そんな逡巡は、映像そのもの、画面の「進行方向」やキャラクターの「顔の向き」にも表れている。およそ映画というのは、視聴者から見て右側に進んで行く(日本映画は例外で逆が多い)。感情的に前向きな場面は右側進行、反対に後ろ向きな場面は左側進行となる。したがって、兄弟の中で最も旅に積極的な長男フランシスの顔の向きは基本右であるが、元々途中で旅を切り上げるつもりの三男ジャックはほぼ左向きである。そして次男ピーターはばらつきがある。
これに関して、作中最も印象深いカットがある。それは兄弟が旅の途上で出会ったインド人の少年を、彼の村で弔うシークエンスの後にある。村の借宿で落ち込んでいる三人。長男は仰向けで、上体を起こすと顔の向きが右向きになる位置でベッドに横たわっている。そのままカメラがズームアウトしていくと、今度は同じ体勢の三男が映り込むが、彼の場合は長男と対称だ。さらにズームアウトしていくと、最後にベッドに座る次男が映り込むが、なんと彼だけは顔の向きがカメラと向かい合わせになっている。これはまさしく彼のマージナル性を表しているであろう。
旅の目的
はてさて、この物語はホイットマン三兄弟がインド北西部で聖地巡礼の旅をするというものだ。目的は「絶交状態にある三兄弟の絆を回復する」というものだが、他に「家族を捨てヒマラヤの修道院で尼僧となった母に会いに行く」という隠された目的もある(どちらも長男フランシスが計画したもの)。物語の後半、母は会いに来た息子達に家出の理由を問われ、「夫に嫌気が差した」旨を濁すように答えるが、おそらくこれは夫のpaternalisticな振る舞いへの不満が原因と思われる。 というのも、当作品はハリウッドの名匠エリア・カザンの映画『エデンの東』(ジョン・スタインベック原作)に物語の構造が非常に似ているからだ。
『エデンの東』との類似
エデンの東は、「厳格なプロテスタントである父アダム、その父の愛を奪い合うように競争する長男アーロンと弟のケイレブ」という“家族関係”、主人公のケイレブが列車に乗り、「夫アダムの支配から逃れて娼館を営んでいる母ケートに会いに行く」という“母を求めるシークエンス”などが描かれる。著名な作品なので、当作品はこれを踏襲したと思われる。
父親代わりの長男
エデンの東との相違点は色々あるが、一つ挙げるとすれば、それは父の性質が長男フランシスに受け継がれ、長男が父の代理になっていることだ。
なぜフランシスが父の代理と言えるか。それは、 「旅程を全て自分で組む」 「1年ぶりに再会した弟二人へ出合い頭に3つの協定(という名の戒律)を押し付ける」 「弟達の食事を良かれと勝手に決めて注文する」 「寝床を指定する」 「旅のもう一つの重要な目的(母に会いに行く)を弟達に途中まで明かさない」 「二人が帰れないようパスポートを取り上げる」 などの振る舞いから見て取れる。こうした振る舞いから見えてくる長男フランシスの性格はpaternalisticと言わざるを得ず、おそらくこれが(父が母に嫌がられたように)弟達を遠ざけた要因になったのではないか(つまり、母が家を出、父が死んだことで親代わりを引き受けなければならなくなったフランシスのプレッシャーは甚大だった、それが弟達への過干渉として表れ、結果的に兄弟の分裂を招いたのではないか)。さらに言えば、そんな支配的な長男に直接抵抗せず、次男と三男で互いの秘密を長男に告げ口するという「矛先を間違った」やり方で関係性をさらにもつれさせるシークエンスから、弟達の問題も浮き彫りになる(弟同士の争いは、二人の長男フランシスに対する“遠慮"が招いたものであろう。「長男の振る舞いはたしかに支配的であるが、それは両親の代わりを一挙に背負わせてしまった自分達の責任でもある」こうした長男への負い目がコンプレックスを生み、攻撃性が「※置き換え」としてそれぞれに具現したのではないかと想像する。このような関係性は三兄弟においてよく見られるものだ。ちなみに筆者は三兄弟の末っ子で、しかも父がほぼ不在の家庭であったので、こうした関係性には非常に心当たりがある。子ども時代、筆者と次男は長男の横暴から来る不満をお互いに向け合い、よく横の争いをしていたものだ。また余談だが、『エデンの東』の関係性は旧約聖書の「カインとアベル」の逸話が元になっており、父が長男を依怙贔屓することで次男に嫉妬心を生み、兄弟間の争いを招くというような構図である。なんともシャーデンフロイデな話だ)。 ※《「置き換え」とは精神分析学用語で、防衛機制の一種。対象への受け入れがたい感情や欲求を別の対象へ向けること。“八つ当たり"に近い。》
新生の予兆
つまり、この旅の目的を成就するには三人の「変節」が鍵となるわけだが、そう考えると冒頭の列車内、三兄弟が乗務員からヒンドゥー教の「ティカ(tikka)」と呼ばれる赤い印を額に塗られるシーンや、中盤の事故死したインド人の少年の葬式(当然ヒンドゥー式)に参加するエピソードなど示唆的だ。これらの出来事は、旅によって一行が 「Initiation(通過儀礼)/Baptism(洗礼)/Born Again(新生)/Conversion(改宗)」を果たすということを予告していると思われる。
ホイットマンの兄弟
この映画、絵面はヒンドゥーだし、十字架さえ出てこないのでキリスト教の匂いはほとんどしないが、それでも三兄弟はいかにもアメリカの古いプロテスタントの家柄という感じだ。それはなぜか。 三兄弟は旅の荷物が多く、それぞれ父から受け継いだルイ・ヴィトンのスーツケースに加えて、次男ピーターは父の形見の高級そうなサングラス、三男ジャックはこれも高級そうな香水、長男フランシスに至っては$3000のローファーや$4000のベルト、召使いの如き助手まで所有している。またジャックは小説家で、旅の直前までパリで短編を書いていた。さらに三兄弟が父の葬儀へ向かう場面では、彼らが父の所有していたポルシェを受け継ぐ描写がある。それから誰であったか、兄弟から「試練」というワードが口をついて出てきたりする。 これらのことから、彼らが伝統的なプロテスタントの富裕層、つまりはWASP (White Anglo-Saxon Protestants) の家系であることが見えてくる。
天竺の魔力が再び結び合わせる
話が進んでいくと、やはり予告通り旅を通して柔らかくなった(母やインド文化の影響でMaternalisticにBorn Againした※ルー大柴か)長男フランシスが、最も優柔不断で受動的な次男ピーターに選択権・主導権を委ねたであろうと想像できるシーンが出てくる。それは、「フランシスがピーターにチケットの処分を託すシーン」「フランシスとジャックを後ろに乗せ、ピーターがバイクを運転するシーン」などだ。バイクシーンは、「列車」という支配的で閉塞した空間を抜け出し、自由になるという象徴性を見て取れもする(三兄弟は会いに行った母から「もっと自由になりなさい」と告げられている)。 こうして、父の死を契機に引き裂かれてしまった絆が、再び強く結び合った三兄弟(まるでベートーヴェン第九の歓喜の歌が流れてくるようだ)。彼らは不要な旅の重荷──父親のスーツケースやバッグ──を捨てて、冒頭のピーターと足並みを揃えるように新たな列車へ飛び乗るのであった。
