シンプル抜書きノート〜「「大きな物語」が喪失した時代 新たな知の共同体を作れるか」隠岐さや香
更新日:2022年3月31日
・リベラルアーツの概念の根本として、私は古代ローマの哲学者・キケロをよく参照する。
そこには博識だけでも弁論だけでもなく、その二つが統合されて
人間としてのあるべき教養、知性を備えた人物としての評価がされるという理念がある。
→読んできた本について語り合う形式の「読書会」は、まさにリベラルアーツの
概念を体現しているのではないだろうか?
・大学の研究の狭小化と専門化が指摘されることがあるが、
私から見ると問題はそれほど単純ではない。
同じ学界の会員同士でも話が通じないことがあるのは事実だが、
その一方で、既存の分野の再編成も起こっているからだ。
分野が単に細く狭くなっていくだけではなく、個別のテーマを絞りながら、
全く別の分野とつながっていくようなことが絶え間なく起きている。
(中略)従来であればAという対象を扱えばよかった分野で、Bという対象も
扱わなければならないということが頻繁に起こる。
→あらゆるものが直接・間接に「関係性を持っている」と考えている。
「奥いけ」がアート系など様々な活動をしているのも同じ理由から。
・「教養」と「自己啓発」の違いは何か。私は、「自己啓発」は個人主義的な問題であり、 個人の能力を高める意味合いが強いと理解している。
それに対して「教養」は、基本的に個人よりも他者とどう関わるかが重要だと考える。
予想外のものに触れ愕然とする、素敵だなと感じながら世界を知った上で、
他者とどう対話するか、という視点が教養には必要である。
→教養とコミュニケーション、竹下登、活人拳、コミュニティ
→自己啓発、個人の能力強化、他者との競争、攻撃性、論破
・教養において、特に私が対話を強調するのは、
二十一世紀は他者がかつてないほど多様になっているからだ。(中略)
そうした多様な方々との対話を通して共同体を作るという面が教養には強くあると思う。
教養の原点にあるのは、知の共同体という発想だろう。
そもそも中世の大学は、教会の外で、アリストテレスなどの古代の文献を読み合った
組合組織から始まっている。(中略)
自己啓発と教養には、個人の問題なのか、知の共同体かという
前提の違いがあると思う。
→対話を通して共同体を作る、知の共同体 ≒ 組合的なコミュニティ、
→共同体と多様性、教養と多様性、「20代限定」など年齢制限の読書会
・このように、見えていないつながりを見せてくれるのも教養であり、
教養が知識を深いものにしてくれるのだと思う。
→エンタメをもっと楽しめるようになれるのも、また教養
・小集団であっても、それぞれの集団と集団が接するときに新しいことが起こるのだから、
意識的に一緒に議論していく場を作ることを始めることが有効なのではないか
→お互いが小さくとも、他の読書会との交流にも一歩踏み出すべきか
・これからの教養について私が重視するのは、やはりリベラルアーツの原点である議論や
交流である。大学が安全に他者の意見と触れ合える場、ポジティブな経験をする場であっ
てほしいし、そうした動きがもっと活発になって欲しいと考えている。
→「議論」という言葉に拒否反応を示す方々へ、どうアプローチしていけば
いいのだろうか? 悩みは尽きない。
(出典)「中央公論」2021年8月号より
