シンプル抜書きノート〜『コモンの再生』内田樹、文藝春秋
更新日:2022年4月1日
・コモン(common)というのは形容詞としては「共通の、共同の、公共の、ふつうの、ありふれた」という意味ですけれど、名詞としては、「町や村の共有地、公有地、囲いのない草地や荒れ地」のことです。(同書P3)
・昔はヨーロッパでも、日本でも、村落共同体はそういう「共有地」を持っておりました。それを村人は共同管理した。(中略)ですから、コモンの管理のためには、「みんなが、いつでも、いつまでも使えるように」という気配りが必要になります。(同書P3)
・コモンの価値というのは、そこが生み出すものの市場価値の算術的総和には尽くされません。(中略)それよりはむしろ、「みんなが、いつでも、いつまでも使えるように」という気配りができる主体を立ち上げること。それ自体のうちにコモンの価値はあったのだと思います。(同書P3〜P4)
・コモンの価値は、「私たち」という共同主観的な存在を、もっと踏み込んで言えば共同幻想を、立ち上げることにあった。「私たち」という語に、固有の重みと手応えを与えるための装置としてコモンは存在した。そう僕は思います。(同書P4)
・僕がこの本で訴えている「コモンの再生」は、(中略)市民の原子化・砂粒化、血縁・地縁共同体の瓦解、相互扶助システムの不在という索漠たる現状を何とかするために、もう一度「私たち」を基礎づけようというのです。(同書P6)
・自分たちの日々の活動そのものが、日々「公共」を基礎づけており(同書P22)
(注)文中の句点については、こちらで追加しました
・この高福祉制度によって、それまでワーキングクラスの子供たちにとっては無縁だった映画、演劇、音楽、美術、服飾、メディアといった業種への進出が可能になった。
プレディみかこさんの『子どもたちの階級闘争』によれば、ビートルズを頂点とする60年代イギリスの文化的百花繚乱は、高福祉制度によって、労働者階級の子どもたちがそれまではアクセスできなかった文化領域への進出が可能になったことの歴史的成果だそうです。(同書P38〜P39)
・お金はまあ生活するぎりぎりしかないけれど、暇と好奇心だけは売る程あるという人たちがそれなりの頭数存在することは、社会を風通しのよいものにする上ではたいへんに有効です。(同書P46)
・才能のある人をやっかんだり、足を引っ張ったりする暇があったら、その人達が伸びやかに才能を発揮できるように支援すべきだと僕は思います。どう考えても、その方が集団的な生存戦略としては効率がいいんですから。(同書P59)
・今の日本の大富豪の中には、自分の個人的な趣味の良さや鑑定眼に基づいて、異才を見出して支援できるほどの「目利き」がいない。日本の文化的発信力が衰えた理由の一つはこの「目利き」の消滅でしょう。(同書P60〜P61)
・玄人の芸を見て、それがどれくらいすごいものかはわかる。至芸を見ると鳥肌が立つというくらいのことはできる。この「玄人のすごさがわかる半玄人」の分厚い層があって初めて伝統芸能は生き残れる。一人の玄人が食ってゆくためには、その数十倍の素人が芸事を習って、そこそこの「目利き」になっておく必要があるんです。(同書P62)
・成熟のための自己造形のロールモデルがなくなったことを意味(同書P64)
・「間尺」というのは要するに「時間意識」のことです。どれくらいのタイムスパンでことの損得を計算するか、その長短で適否の判断は変わります。10時間で測る人と10年で測る人では判断が逆転することもある。(中略)日本の組織は今それに近い感じです。「今気分が良ければ、先のことなんか知るかよ」という気分に覆われて、長期的な利害について思量する想像力を失ってしまった。(同書P68)
・商取引モデルだと、「消費者」はバカであればあるほど騙しやすい。ですから、見栄えの良い広告に引っかかって、換金性の高そうな専門知識の習得に巨額の教育投資を行う頭の悪い消費者たちばかりになる(同書P78)
・長く教壇に立ってきた経験から「才能は温室で開花する」ということについては確信があります。上からの査定的なまなざしに脅えながら才能が開花するなんてことは絶対にありません。(同書P178〜179)
・周りの人たちを「同胞」と感じることができ、その人たちのためだったら「身銭を切ってもいい」と思えるような、そういう手触りの温かい共同体はどうやったら立ち上げることができるのか。この問いが今ほど切実になったことはありません。(同書P268)
